鬼の間
「鬼の間」という名称を聞くと、誰もが驚かれるでしょう。名前の通り、「鬼」が住む部屋があるのか、そう思われるでしょう。しかもその間の存在は、平安時代の天皇のお住まいの中であると聞けば、なおさら驚かれたと思います。

上記、図面の1番、「夜御殿」が、当時の天皇がお休みになられたお部屋です。そして3番に鬼の間が設けられておりました。京都御所の中でも、天皇が生活の場とされる清涼殿の中に「鬼の間」はありました。
京都御所の清涼殿の一室、「鬼の間」には、飛鳥部常則という宮廷絵師が、康保元年(964年)鬼を斬り倒す白沢王の像を描いたことで、その間が「鬼の間」と呼ばれるようになったと伝承されています。
しかし皆さんのご自宅にいくら有名な絵師と言えども鬼の絵を壁一面に描くでしょうか? 覚悟を持って描かれたことが想像されます。
災い事(疫病や天災)などを鬼にみたて、王が鬼を退治する絵であり、その王の名が、白沢王(名目は「はくた王」、仮名は「はかた王」)といい、李将軍、古代インドの波羅奈国の王で、鬼を捕らえた剛勇の武将とされる王でした。
皇室の天皇が、災いごとから逃げるのではなく、鬼をとらえて、戦う様子を描いているのであり、こういった皇室の姿勢は、延喜21年(921年)10月27日、東寺長者観賢(かんげん)の奏上により、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号(しごう)と桧皮色の御衣下賜の勅命が下されたことからも、空海の影響が当時の皇室にも大きな影響を与えていたことがわかります。
災い事を鬼としてやっつけ、なおかつ石灰壇で幸せを願う。この両立が空海の密教の影響が強いことは想像できます。
ここで密教を語れば、密教という言葉を聞くと、誰もが「秘密」めいた教えを考えますが、元々、仏の教えですから、万人に平等であるわけで、密教は「見る人にはわかる」、「分かる人にはわかる」、そういった教えです。
当時、庶民には御所、築地塀の凹み、猿が辻しか見ることはできません。ゆえに凹ませることを災いから逃れる手法と勘違いしたことも納得できます。比叡山最澄にも伝えることがなかった空海の奥義を一般の者や他の宗派の仏教関係者が見ただけで伝えるはずもないでしょう。鬼の間という部屋の存在を知らない者も多いと思います。
それが今日まで伝わる鬼門を異常に恐れる日本文化になったと思われます。
天皇は自らの生活の場である清涼殿に災い事(鬼)を導き、切り倒し、対面にある石灰壇で幸せを願い、護摩や祈祷で、国民に災い事がいかぬように願われていたと想像できます。
明治維新で、神仏が分離し、廃仏毀釈運動が起きました。皇室に仏教が深くかかわっていたことを恥と思う思想が国家にはあったでしょう。そして日本の国は、明治、大正、昭和、そして戦争の道に進んでいきます。
戦後、GHQにより日本の宗教観は骨抜きにされ、その上で日本のオールドメディアにより、占い師が暗躍して、今の鬼門思想が日本に深く根付いたと思われます。
時の天皇は、疫病や天災を鬼と例え、恐れていましたが、空海の力を借りて、逃げない姿勢で「鬼の間」をつくられたのだと思います。夜御殿と隣接し、二間をつくり、護持僧を常に待機させて祈祷を行い、災い事から「逃げず、恐れず」、鬼とみなしてたたき斬る。
今伝わっている家相の本質とまったく違うことに気づかれたと思います。家相を見てもらう占い師に鬼の間のことを聞いて語れなければ、それなりの者、そう申しておきましょう。
家相研究会


